「恣意性がある」と言われたとき、何となく“不公平”“勝手”という印象はあっても、どこが問題なのかを説明しようとすると言葉に詰まってしまうことがあります。さらにややこしいのが、「言語の恣意性」という学術用語としての使い方も存在し、同じ言葉なのに意味がまったく違うことです。
この二つを混同すると、会議や文章で意図が正しく伝わらなかったり、必要以上に強い批判として受け取られたりして、無用な摩擦につながりかねません。
本記事では、まず「恣意性」が指しているのは言語の仕組みなのか、それとも判断や運用の不透明さなのかを、すぐに見分けられるように整理します。次に、日常用法で「恣意性がある」と指摘する際に重要な根拠の三点セット、角が立ちにくい言い換え表現、恣意性を減らすための基準公開・記録・再現性の考え方まで、具体例とともに解説します。
読み終えた頃には、「恣意性」という言葉を曖昧に使わず、場面に応じてフェアに説明できる状態を目指せます。
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恣意性とは何かを一言で押さえる
言語学の恣意性は能記と所記の結びつきが必然でないこと
「恣意性」という言葉は、文脈によって意味が大きく変わります。まず押さえておきたいのは、言語学(特にソシュール以降の記号論)で使われる「恣意性」と、日常会話やビジネスで使われる「恣意性」が、同じ漢字でも指している対象が違うという点です。
言語学における恣意性は、「音や文字」と「意味(概念)」の結びつきに自然な必然性がないという性質を指します。ここでよく用いられるのが「能記」と「所記」という区別です。
能記:記号として表に出る側(音声、文字、記号の形)
所記:記号が指し示す内容(意味、概念、対象の捉え方)
たとえば、日本語の「いぬ」という音(能記)と、「犬という動物の概念」(所記)が結びついているのは、自然界の法則で決まったからではありません。英語なら dog、フランス語なら chien のように、同じ対象でも言語が違えばまったく違う能記が割り当てられます。つまり、犬という概念に対して「いぬ」という音でなければならない理由は本来なく、社会の中で「そう呼ぶことにした」という約束が共有されて成立している、という考え方です。
この「必然ではない」という性質は、誤解されることが多いポイントでもあります。言語学の恣意性は「でたらめ」や「勝手気まま」という批判ではなく、言語という仕組みが社会的約束で成立していることを説明するための概念です。善悪の評価を含む言葉というより、「仕組みの特徴」を表す中立的な用語に近い、と理解しておくと混乱が減ります。
また「恣意性がある=意味が通らない」ということでもありません。むしろ、恣意性があるからこそ、社会が新しい概念に新しい語を与えたり、既存の語に新しい意味を広げたりできます。例えば、技術の発展で「クラウド」「サブスク」など新しい言葉が定着するのも、能記と所記の結びつきが自然法則で固定されていないからこそ起きる現象です。
日常用法の恣意性は客観性や一貫性が欠けること
一方、日常の文脈で「恣意性がある」「恣意的だ」と言うときは、意味合いがかなり変わります。こちらは多くの場合、客観性・一貫性・透明性が不足しているという批判的ニュアンスで使われます。
たとえば、次のような状況が典型です。
ルールや基準が明示されていないのに、結果だけが決まる
同じ条件のはずなのに、人や時期によって判断が変わる
判断の根拠が説明されず、担当者の裁量や好みに見える
手続きが不透明で、第三者が検証できない
このときの「恣意性」は、判断や運用が「基準にもとづいているのか」「再現可能なのか」「説明責任を果たしているのか」を問う言葉です。つまり、日常用法では「恣意性がある」と言われること自体が、信頼を損ねるシグナルになりやすいと言えます。
注意したいのは、日常用法の「恣意性」は、相手に向けると攻撃的に響きやすい点です。「恣意的ですね」と言うだけでは、単に「あなたは勝手だ」と人格批判のように受け止められるリスクがあります。したがって、日常用法では「どこが」「なぜ」を丁寧に言語化し、できれば改善提案までセットで示すことが重要になります。
まず混同を避けるための判定ポイント
恣意性でつまずく原因の多くは、「同じ言葉が違う領域で使われている」ことにあります。混同を避けるには、まず話題の対象を見抜くことが第一です。次の視点で判定すると整理しやすくなります。
話題が「言語」や「記号」か
例:言葉の意味、言語学、能記・所記、ソシュール、記号論
→ これは言語学の恣意性の可能性が高いです。話題が「判断」や「運用」か
例:評価、審査、採点、人事、ルール運用、行政判断、裁量
→ これは日常用法の恣意性の可能性が高いです。価値判断の方向
言語学の恣意性は基本的に価値中立で、批判を含まないことが多い一方、日常用法の恣意性は「不透明」「不公平」といった批判の文脈で使われやすいです。
この判定を最初に行うだけで、説明の筋道がぶれなくなります。特に会議やニュースで「恣意性がある」と言われた場合は日常用法の可能性が高く、授業や学術文献で「言語の恣意性」と出てくる場合は言語学用法であることが多い、と押さえておくと実用的です。
恣意性が混同されやすい理由と見分け方
同じ語でも専門用語と批判語で役割が違う
恣意性が混同されやすい最大の理由は、「恣意」という漢字のニュアンスにあります。「恣意」は一般に「自分勝手」「思いのまま」といった印象を持たれやすく、日常用法の「恣意的」もまさにその方向で使われがちです。そのため、言語学の説明で「言語には恣意性がある」と言っただけでも、聞き手によっては「言語はでたらめにできているのか」と誤解しやすくなります。
しかし、言語学でいう恣意性は「勝手に作った」という非難ではなく、能記と所記の結びつきが自然必然ではないという構造の説明です。社会の中で共有される約束として成立している、という意味であり、「個人の気分でコロコロ変わる」という話ではありません。むしろ逆で、言語は共同体の中で共有されるからこそ、個人が勝手に変えられない側面も強いものです。
一方で日常用法は、判断や制度運用に対して「根拠が薄い」「基準が示されない」「一貫性がない」といった不満を表すために使われることが多く、ここには明確に価値判断が入りやすいと言えます。
つまり、同じ語でも役割が違います。
言語学:現象の仕組みを説明する用語(価値中立寄り)
日常:判断の正当性や公平性を疑う批判語(価値判断が入りやすい)
この違いを知っているだけで、「恣意性」という言葉を使うときの表現設計が変わります。たとえば学術文脈では「社会的約束」「記号の性質」といった補足を添えると誤解が減りますし、日常文脈では「基準」「透明性」「再現性」といった具体語で説明すると対立が減ります。
判定フロー:話題が言語記号か判断運用か
混同を実務的に防ぐには、シンプルな判定フローを持っておくのが効果的です。以下は会話中でも使える、短いフローです。
今の話題は「言葉そのものの仕組み」か?
例:「言葉と意味の関係」「記号」「能記・所記」「言語学」
→ はい:言語学の恣意性今の話題は「誰かが下した判断・運用」か?
例:「評価」「審査」「採点」「運用基準」「裁量」
→ はい:日常用法の恣意性批判・疑義の文脈か?
例:「不公平」「納得できない」「説明がない」「一貫性がない」
→ はい:日常用法の可能性が高い
そして、判定後の対応も変えます。
言語学の恣意性:例を示し、約束事としての仕組みを説明する
日常用法の恣意性:基準の有無、運用の一貫性、説明可能性を確認し、改善策を提示する
この切り替えができると、説明の焦点がぶれず、相手の納得を得やすくなります。
誤解しやすい言い回しと注意点
「恣意性」が誤解を生みやすいのは、言い回しが曖昧になりやすいからです。特に注意したいのは次のような表現です。
「言語は恣意的にできている」
この言い方は、言語学の恣意性を説明したい意図でも、日常用法の「でたらめ」「根拠がない」というニュアンスで受け取られる恐れがあります。安全な言い換えとしては、次のような表現が有効です。
「言葉と意味の結びつきは自然必然ではなく、社会的な約束で成り立っている」
「別の言語では別の呼び方になることから、呼び方自体は約束事だと言える」
「その判断は恣意的だ」
日常文脈で使う場合でも、これだけだと角が立ちます。「何が問題なのか」を具体化せずに投げると、相手は防御的になり、議論が対立に寄りやすくなります。代替表現としては次のようなものが考えられます。
「判断基準が明示されていないように見えます」
「同様のケースと比べると一貫性が取りづらいです」
「判断の根拠を共有いただけると、納得しやすくなります」
恣意性をめぐる議論は、抽象語のぶつけ合いになると消耗しやすいので、基準・根拠・一貫性といった観点に分解し、具体に落とすのが重要です。
言語の恣意性を具体例で理解する
犬の例で分かる言語記号の約束事
言語の恣意性を理解するうえで最も分かりやすいのが、多言語比較です。犬という対象は世界中に存在しますが、呼び方は言語によって異なります。
日本語:いぬ
英語:dog
フランス語:chien
韓国語:개(ケ)
中国語:狗(ゴウ)/犬(チュエン)など(表記や読みは地域差があります)
同じ対象が、言語ごとにまったく異なる音(能記)で呼ばれるという事実は、「犬という対象にふさわしい唯一の音があるわけではない」ことを示します。つまり、音と意味の結びつきが自然必然ではない、という言語の恣意性が直感的に理解できます。
ここで重要なのは、恣意性が「自由気まま」ではないという点です。たしかに結びつきは必然ではありませんが、共同体の内部ではその結びつきは強固です。日本語話者の共同体で「犬」を突然「ねこ」と呼び始めても通じません。能記と所記の結びつきは、共同体の合意と慣習によって支えられており、個人が勝手に変えることは難しいのです。
言語学の恣意性は、まさにこの「自然必然ではないが、社会的には固定される」という二面性を含んでいます。だからこそ、言語は自然現象ではなく社会制度の一つとして扱われ、歴史や文化、共同体の変化とともに語彙や意味が変わっていくのだ、と理解につながります。
恣意性と線条性をセットで覚えるコツ
言語学や日本語教育の領域では、恣意性と合わせて「線条性」がセットで説明されることがあります。線条性とは、特に音声言語において、要素が時間の流れに沿って一列に並ぶ性質のことです。たとえば「い・ぬ」という音は同時に重ねて発せられるのではなく、順番に並んで発せられます。文字も基本的には線状に並びます。
セットで覚えるコツは、両者を「言語の記号としての性質」として整理することです。
恣意性:形(音・文字)と意味は自然必然ではなく約束で結びつく
線条性:形(音・文字)は時間・空間上で順序を持って並ぶ
試験や学習で暗記に偏ると「用語の定義」だけが頭に残りやすいですが、イメージを持つと理解が安定します。たとえば次のように捉えるとよいでしょう。
言語は「意味」を運ぶために「形」を使う
その形は、自然に意味と結びつくのではなく約束で結びつく(恣意性)
しかもその形は、時間に沿って並べて表す(線条性)
この見取り図ができると、恣意性を「勝手」という感覚で捉える誤解が減り、言語が社会的に共有される記号体系だという理解に繋がります。
例外に見える現象:オノマトペと音象徴
恣意性を学ぶと、多くの人が「でもオノマトペは音と意味がつながっているように見える」と感じます。たとえば、「ドキドキ」「サラサラ」「ゴロゴロ」などは、音の印象が意味に近く、完全に任意(恣意的)とは言い切れないように思えます。
ここで登場するのが「音象徴」という考え方です。音象徴とは、音の性質が意味の印象と結びつきやすい傾向がある、という現象を指します。例えば、硬いものを表す語に濁音が含まれやすい、鋭いものを表す語に特定の音が含まれやすい、といった直感的な一致が観察されることがあります。
ただし、この事実は「恣意性が誤りだ」という結論に直結しません。むしろ理解の仕方としては、次のような整理が現実的です。
言語の基本原理として、能記と所記の結びつきは自然必然ではない(恣意性が強い)
しかし、人間の感覚や認知により、音の印象が意味と関連づけられやすい領域も存在する(音象徴)
したがって、恣意性は絶対的な一枚岩というより、領域によって「強い/弱い」の度合いがあると考えると理解しやすい
オノマトペを「例外」として知っておくことは、恣意性の理解を壊すのではなく、むしろ深めます。完全な断定で覚えるよりも、「基本は恣意性、ただし音象徴などの影響もある」と柔らかく把握するほうが、現実の言語現象に近い理解になります。
日常用法の恣意性があるをフェアに説明する
恣意性の根拠は三点セットで示す
日常用法として「恣意性がある」と言うとき、相手に伝わるメッセージは強いものになります。だからこそ、ただ断定するのではなく、根拠を整理して「フェアに」伝えることが大切です。最も効果が高いのが、次の三点セットで問題を特定する方法です。
基準が不明確
判断基準や評価項目が明文化されていない、または共有されていない状態です。
例:「何を満たせば合格か」「どの行動が減点か」が説明されていない。一貫性がない
同じ条件でも結論が変わる、担当者や時期で結果が違う状態です。
例:前回は認められたのに、今回は同様の申請が却下された。再現できない(検証できない)
第三者が同じ情報・同じ手順で判断して同じ結論に到達できない状態です。
例:判断の理由が記録されておらず、後から説明できない。
この三点セットは、「恣意性がある」という曖昧な批判を、改善可能な課題に翻訳する役割を持ちます。恣意性という言葉を使う前に、この三点のどれに当たるのかを自分の中で整理しておくと、相手への伝え方も柔らかくできます。
たとえば、次の2つは受け取られ方が大きく違います。
「その判断は恣意的です」
「判断基準が明示されていないため、同様のケースで結果が変わる可能性があります。基準を共有いただけると納得しやすくなります」
後者は「人格批判」ではなく「制度設計の課題」として話を進められます。恣意性を問題にする目的は相手を責めることではなく、納得と公平を支える仕組みを作ることだ、と整理して伝えるのがポイントです。
恣意性を避ける仕組み:基準公開・記録・再現性
日常用法の恣意性は、個人の性格よりも「仕組みの不足」から生じることが多いです。特に組織では、担当者が変わったり、忙しさで説明が省略されたりすると、結果的に恣意性が疑われやすくなります。恣意性を避けるために効果的な仕組みは、次の3つに集約できます。
基準公開
評価項目、判断条件、審査手順、例外規定などを文章化し、関係者が参照できる状態にします。
これにより、「知らないところで決まっている」という不信感が減ります。基準が公開されていれば、当事者は準備や改善ができますし、判断側も説明責任を果たしやすくなります。記録
判断の根拠(どの事実を見て、どの規定を適用し、どう結論に至ったか)を残します。
記録がないと、後から質問されたときに説明が曖昧になり、恣意性が疑われやすくなります。記録は「正当性の裏付け」であると同時に、「次回以降の一貫性」を守るための資産でもあります。再現性の担保
誰が担当しても同じ結論になりやすいよう、判断の観点をチェックリスト化したり、判断の分岐をフローに落としたりします。
再現性が高いほど、属人的な裁量が減り、「恣意的に見える」余地が小さくなります。
ここで大切なのは、恣意性をゼロにすることが常に正解ではない点です。現実には、ルールで定義しきれない例外や個別事情があり、一定の裁量が必要な場面もあります。その場合でも、裁量を使うなら使うで、「裁量を使う条件」「裁量の範囲」「裁量を行使した記録」を整備することで、恣意性の疑いを減らせます。裁量と恣意性は紙一重になりがちなので、「裁量を透明化する」ことが現実的な解決策になります。
言い換え表現:不透明・一貫性がない・基準が曖昧
「恣意性」という言葉は便利ですが、強い表現でもあります。場面によっては、言い換えたほうが対話が前に進むことがあります。特に、相手が防御的になりやすい場面では、まず言い換えで論点を合わせるのが有効です。
不透明:判断の過程が見えない、説明が不足している、根拠が示されていない
一貫性がない:ケースによって扱いが違う、前回と基準が違う、運用がぶれている
基準が曖昧:評価項目が定義されていない、例外規定が不明確、判断条件が共有されていない
属人的:担当者の裁量が大きい、個人差が出やすい
再現性が低い:第三者が同じ結論に至れない、検証が難しい
これらの言い換えは、「恣意性」という抽象語を具体化するための道具です。具体化できるほど、議論は「責める・反発する」から「改善する・整備する」へ移ります。
実際のコミュニケーションでは、次のような段階にすると角が立ちにくくなります。
「判断基準が見えにくい点がありそうです」
「同様のケースと比べたときの一貫性が気になります」
「そのままだと恣意性があるように受け取られる恐れがあるので、基準を明文化しませんか」
このように「恣意性」を最初に投げるのではなく、最後に位置づけると、相手も受け入れやすくなります。
恣意性に関するよくある質問
恣意性と恣意的の違いは何ですか
「恣意性」と「恣意的」は、似ているようで文法上の役割が異なります。整理すると次のとおりです。
恣意性:名詞。「恣意的である性質」「恣意が入りうる度合い」を表します。
例:「この制度には恣意性が残る」「恣意性を排除する仕組みが必要だ」恣意的:形容動詞。「恣意にもとづくさま」「客観性や一貫性が乏しいさま」を表します。
例:「恣意的な判断」「恣意的に運用されている」
言語学の文脈では「恣意性」という名詞が中心で、概念として扱われることが多い一方、日常用法では「恣意的」が批判的な形で出てくることが多い、という傾向もあります。文章を書くときは、性質を言いたいのか、判断の様子を言いたいのかで、使い分けると自然になります。
恣意性は悪い意味だけですか
悪い意味だけではありません。ここが「恣意性」という言葉の重要なポイントです。
言語学の恣意性:価値中立に近い概念です。「言語の仕組みの特徴」を説明しており、善悪を断じる意図は通常ありません。
日常用法の恣意性:批判の意味で使われやすい言葉です。「不透明」「不公平」「根拠が薄い」という含意が入りやすく、ネガティブになりがちです。
つまり、恣意性が悪い意味かどうかは、どの文脈で使っているかで決まります。誤解を避けるには、言語学の文脈なら「社会的約束」「記号の性質」という補足を添える、日常文脈なら「基準」「一貫性」「説明可能性」など具体語で言い換える、といった工夫が有効です。
英語では何と言いますか
英語では、文脈によって次の語がよく対応します。
arbitrariness:恣意性(名詞)
arbitrary:恣意的な(形容詞)
ただし注意点があります。英語でも arbitrary は日常会話では「根拠が薄い」「勝手な」「適当に決めた」という否定的ニュアンスになりやすい一方、言語学の文脈では「言語記号の結びつきが必然ではない」という意味で、比較的中立に使われます。
そのため、英語で説明する場合も、日本語と同じく「言語学の恣意性」と「日常批判の arbitrary」が混同される余地があります。誤解を避けたい場合は、言語学の話では「conventional(慣習的な)」「socially agreed(社会的に合意された)」といった補足語を添えると意図が伝わりやすくなります。