小泉八雲の妻として知られ、NHK朝ドラ「ばけばけ」の主人公モデルにもなった小泉セツ。
その温かな人柄や家族を支える姿は多くの人に愛され続けていますが、その一方で「晩年はどう生き、どのような最期を迎えたのか」「死因は本当に脳溢血だったのか」といった点は、意外と知られていません。
本稿では、信頼できる資料に基づき、小泉セツの死因・没年・亡くなった場所・家族に看取られた最期の姿をわかりやすく整理いたします。また、動脈硬化から脳溢血に至る医学的背景や、晩年の生活・家族の支え、さらにドラマとの違いまで丁寧に解説いたします。
「史実としてのセツ」を知ることで、ドラマの人物像がより豊かに見え、人物の魅力が立体的に感じられるはずです。短時間で要点を押さえたい方にも、深く理解したい方にも役立つ内容となっております。
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小泉セツは、若くして夫・小泉八雲を亡くしながらも、家族を支え続け、語り部として日本文化の魅力を世界へ伝える役割を果たした女性です。晩年は動脈硬化に伴う脳溢血に苦しみながらも、子どもや孫たちの温かな支えを受け、自宅で静かに生涯を閉じました。
史実を知ることは、単に「正しい情報を得る」だけではありません。
セツが見せた強さや優しさ、そして家族に注ぎ続けた深い愛情は、現代を生きる私たちにとっても大きな示唆を与えてくれます。
彼女の生涯に思いを馳せながら、ゆかりの地を訪れたり、伝記やドラマを新たな視点で味わったりと、次の一歩を踏み出していただければ幸いです。
小泉セツとは?朝ドラ「ばけばけ」モデルになった女性
小泉八雲の妻として知られる小泉セツの概要
小泉セツ(小泉節子)は、作家・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻として知られる女性です。1868年(慶応4年)に現在の島根県松江市で生まれ、1932年(昭和7年)に亡くなるまで、激動の時代を生き抜きました。
幼い頃から物語を聞くことが大好きで、その語りの力が、のちに八雲の作品づくりを支える大きな源となりました。セツが語った怪談や民話は、『怪談』をはじめとする多くの作品に形を変えて残っています。
朝ドラ「ばけばけ」での松野トキとの関係性
NHKの連続テレビ小説「ばけばけ」では、ヒロイン・松野トキが小泉セツをモデルとした人物として描かれています。夫である外国人作家ヘブン(小泉八雲がモデル)との出会いや、異文化の夫を支える姿、家族を守る母としての奮闘など、多くの要素が史実をもとに脚色されています。
そのため、ドラマをきっかけに「実際の小泉セツはどんな最期を迎えたのか」「本当の死因は何だったのか」を知りたいと感じて検索する方が増えています。
小泉セツのプロフィールと基礎データ
生年月日・出身地・本名などプロフィール表
まずは基本的なプロフィールを整理いたします。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 小泉セツ(戸籍名)/小泉節子 |
| 読み | こいずみ せつ |
| 生年月日 | 1868年2月4日(慶応4年2月4日) |
| 没年月日 | 1932年2月18日(昭和7年) |
| 享年 | 64歳 |
| 出身地 | 出雲国松江(現・島根県松江市) |
| 主な肩書 | 小泉八雲夫人、日本文化の伝え手・語り部 |
| モデル作品 | NHK連続テレビ小説「ばけばけ」ヒロインのモデル |
幕末に生まれ、明治・大正・昭和初期を生きたセツは、武家出身の娘としての誇りと、生活の困窮、国際結婚、作家の妻としての役割など、さまざまな局面を経験しました。
家族構成(両親・2人の夫・子ども・孫)
実父:小泉湊(松江藩士)
実母:チエ(松江藩家老・塩見家の娘)
養父母:稲垣金十郎・トミ夫妻(松江の士族)
セツは生後7日で稲垣家の養女となり、のちに最初の夫・稲垣巌と結婚しましたが、夫は病で早逝します。その後、英語講師として来日していたラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)と出会い、再婚しました。
八雲との間には長男・一雄をはじめとする子どもたちが生まれ、その後孫にも恵まれます。晩年のセツは、子どもと孫たちに囲まれた「おばあさん」としての顔を持っていました。
小泉セツの死因は「脳溢血」|結論と要点まとめ
死因・没年・享年・亡くなった場所の一覧表
小泉セツの死因について、まず結論を整理いたします。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 死因 | 脳溢血(のういっけつ) |
| 基礎疾患 | 動脈硬化症 |
| 亡くなった日 | 1932年(昭和7年)2月18日 |
| 亡くなった場所 | 東京府豊多摩郡戸塚町(現・東京都新宿区西大久保)にあった自宅 |
| 享年 | 64歳 |
| 看取った人たち | 長男・一雄夫妻、孫たち、親しい知人 など |
記録によれば、セツは60歳を過ぎたころから動脈硬化に悩まされ、たびたび「脳溢血」の発作を起こすようになっていました。最後は自宅で発作を起こし、家族に見守られながら静かに息を引き取ったと伝えられています。
まず押さえたい3つのポイント(チェックリスト)
死因は「脳溢血」であり、背景には長年の動脈硬化があった
1932年2月18日、自宅(現在の新宿区西大久保付近)で亡くなっている
夫・小泉八雲の死から約28年後、子どもや孫たちに見守られた晩年の出来事である
これらを押さえておくと、晩年のエピソードやゆかりの地の情報が理解しやすくなります。
亡くなるまでの経緯|動脈硬化から脳溢血へ
60歳以降の健康状態と動脈硬化の悪化状況
伝記や研究によると、セツは60歳を過ぎた頃から動脈硬化の症状に悩まされるようになったとされています。動脈硬化は、血管の内側が硬く狭くなり、血流が悪くなる状態です。現代医学の観点から見れば、高血圧や加齢などが大きく関わる病態と考えられます。
日常生活では、疲れやすさや頭痛、軽いめまいなどがあったと推測されますが、それでも家族の世話や来客の応対など、できる範囲で家事や生活を続けていました。
最初の発作と、一度目の回復
記録によれば、セツはある年の初めに「脳溢血」で倒れ、一時は危篤と見なされる状況に陥りました。しかし、この時はいったん持ち直し、介助を受けながらも日常生活に復帰しています。
この最初の発作の際には、子ども・孫・親しい友人たちが見舞いに訪れ、セツを励ましたと伝えられています。ここには、作家の妻としてだけでなく、家族の中心として長年信頼されてきた彼女の人柄が表れていると言えるでしょう。
再発〜逝去までの流れと看取りの様子
最初の発作からおよそ一年後、セツは再び脳溢血で倒れます。この二度目の発作が致命的なものとなり、東京・新宿西大久保の自宅で長男一雄夫妻や、泊まり込んで看護していた家族、集まってきた孫たちに見守られながら息を引き取ったと伝えられています。
年表形式で整理すると、晩年の流れは次のようにまとめられます。
| 年代 | 出来事 | 健康状態・主な症状 | 家族の様子 |
|---|---|---|---|
| 60歳前後 | 動脈硬化の症状が目立ち始める | 疲れやすさ・体調不良 | 子どもや孫が生活を支える |
| ある年の初め | 脳溢血で最初の発作 | 一時は重篤だが回復 | 家族・知人がお見舞い |
| その翌年1月下旬 | 二度目の発作で倒れる | 意識レベル低下などが続く | 長男夫妻・親しい人々が泊まり込みで看病 |
| 1932年2月18日 | 自宅で逝去 | 64歳で永眠 | 孫たちも枕元で見舞いをする |
年代の細部は資料により表現が異なりますが、おおよその流れとしてはこのように理解されています。
「脳溢血」とはどんな病気か?わかりやすい医学解説
当時の診断名としての「脳溢血」と現代医学での意味
当時の日本では、脳の血管が破れて起こる突然の発作を一般に「脳溢血」と呼んでいました。現代医学では、脳の血管が破れるタイプを「脳出血」、血管が詰まるタイプを「脳梗塞」と区別しますが、当時はその区別が必ずしも明確ではありませんでした。
したがって、記録上「脳溢血」とされている場合、現代的な分類でいうと「脳出血に相当する状態だった」と考えられるのが一般的です。ただし、当時はCTやMRIなどの画像診断が存在しなかったため、厳密な意味でどのタイプの脳卒中であったかを確定することはできません。
主な症状と、日常生活にあらわれるサイン
脳溢血(脳卒中)の典型的な症状としては、次のようなものが知られています。
片側の手足が突然動かなくなる、しびれる
ろれつが回らない、言葉が出にくくなる
意識がもうろうとする、突然倒れる
激しい頭痛や吐き気を伴うことがある
現代でも同様ですが、高齢の家族がこのような症状を訴えた場合、脳卒中の可能性が高く、緊急の対応が必要です。当時は十分な救急医療が整っていなかったため、発症した時点で家族がどれほど迅速に対応しても、助けられる可能性には大きな限界がありました。
動脈硬化との関係と、高齢期のリスク
動脈硬化は、血管の内側に脂質などがたまり、壁が硬く厚くなってしまう状態です。脳の血管が動脈硬化を起こすと、血管がもろくなり、血圧の急な上昇などをきっかけに破れやすくなります。
現代であれば、血圧管理や生活習慣の改善、薬物療法などでリスクを下げることができますが、セツが生きた昭和初期には、こうした治療手段はほとんどありませんでした。その意味で、当時の64歳という年齢での脳溢血は、決して珍しいケースではなかったと考えられます。
小泉セツの晩年の暮らしと家族の支え
小泉八雲の死後〜子どもを育てる母としての役割
1904年、小泉八雲は心臓疾患(狭心症)により54歳で亡くなります。その時、セツはまだ36歳でした。夫の死後、彼女は残された子どもたちを育て、生活を支える役割を担います。
八雲の著作に関する著作権や講演料などはあったものの、生活は決して豊かではなく、セツは実務的な雑事や家事、さまざまな付き合いを一手に引き受けながら家族を支えていきました。
晩年の同居家族・介護にあたった人々
晩年のセツは、長男・一雄とその家族と共に暮らしていました。動脈硬化や発作のために身体の自由が徐々にきかなくなっていく中で、一雄夫妻や親しい友人が生活と看護を支えたと伝えられています。
最期の時期には、一雄夫妻が泊まり込みで介護にあたり、孫たちも枕元で「お見舞い」をするなど、家族が総出でセツを支えました。死因の背景には病気の苦しさがあったものの、家族に囲まれた温かい時間があったことが強調されています。
回想・伝記に残る晩年のエピソード
小泉家の回想や伝記によると、セツは晩年になっても、子どもや孫のことになると目を輝かせ、気丈にふるまっていたと言われます。
孫に昔話を語って聞かせたり、八雲との思い出を静かに語ったりする姿は、若い頃から変わらない「物語好き」「人の話をよく聞く人」としての一面を保ち続けていたことを示しています。
お墓とゆかりの地|雑司ヶ谷霊園・松江など
小泉八雲と並ぶ雑司ヶ谷霊園の墓所情報
セツは死後、東京・雑司ヶ谷霊園に葬られました。墓所は夫である小泉八雲の墓と並んでおり、現在でも一般の方が訪れることができます。
所在地:東京都豊島区南池袋4丁目25番付近(雑司ヶ谷霊園内)
特徴:小泉八雲・セツ夫妻の墓は、文学ファンや海外からの訪問者も多い場所として知られています。
静かな霊園の一角で、二人は今も並んで眠り続けているとされています。
松江市の記念館・旧居など、セツにゆかりの場所
島根県松江市には、小泉八雲とセツゆかりの場所が複数存在します。その中心が「小泉八雲記念館」と、夫妻が暮らした「小泉八雲旧居」です。
記念館では、セツの写真や家族とのやりとりに関する資料などが展示され、「セツの生い立ち」「セツとハーンの物語」「小泉八雲夫人としての晩年」といったテーマで生涯が紹介されています。
訪問時に知っておきたいマナーと見どころ
墓所では、静かに手を合わせる程度にとどめ、大声での会話や飲食は控える
記念館や旧居では、展示物や建物に触れない・撮影禁止のエリアを守る
セツの晩年や死因を知ったうえで展示を見ると、写真一枚一枚の意味がより深く感じられます
朝ドラ「ばけばけ」の描写と史実の違い
ドラマでの病気・最期の描かれ方のポイント
「ばけばけ」では、ヒロイン・松野トキ(小泉セツがモデル)が、夫ヘブンや家族に囲まれながら年を重ね、病などをきっかけに家族の絆が描かれる展開があるとされています。発作や体調不良の描写は、視聴者にとって印象的なシーンになりやすい部分です。
ただし、ドラマでは物語としてのテンポや感動を重視するため、発症のタイミングや症状の出方などが史実からアレンジされている可能性があります。
史実でわかっていること/わかっていないことを整理
史実として比較的はっきりしているのは、次の点です。
晩年、動脈硬化に悩まされていたこと
脳溢血の発作により、少なくとも2度倒れていること
二度目の発作で自宅にて逝去したこと
長男夫妻や孫たちに見守られて亡くなったと伝えられていること
一方で、次のような細部は、資料によって表現が異なったり、完全には判明していません。
発作の具体的な時刻・発症から逝去までの正確な時間
会話の内容や、最期の言葉としてどの言葉が語られたか
医師による診断の過程や、当日の具体的な処置
ドラマでは、これらの不明な点を物語的に補うために、脚色が加えられていると考えられます。
ドラマをより楽しむための史実との付き合い方
史実を知ると、ドラマの一つひとつのシーンに込められた意味がより深く感じられます。一方で、ドラマはあくまでフィクションであり、視聴者の心に残る物語として再構成されたものです。
史実:セツが動脈硬化と脳溢血に苦しみながらも家族に支えられて最期を迎えた
ドラマ:その核心部分を軸に、人物像がより伝わるように演出した表現
このように理解すると、「どこまで本当か?」という疑問だけでなく、「史実をもとにした物語としてどう受け止めるか」という視点でドラマを楽しむことができます。
小泉セツの人物像が伝わるエピソード集
物語好きの少女から、語り部としての熟成へ
セツは幼い頃から、人々が語る昔話や怪談に耳を傾けるのが大好きな少女だったと伝えられています。武家の娘として礼儀作法を学びながらも、民間伝承や庶民の物語に強く惹かれていきました。
やがて、八雲と出会った後は、その豊かな語りが『怪談』などの作品に結実していきます。セツが語る話を八雲が英語で再話し、世界に届けたという意味で、彼女は創作の「共作者」のような存在でもありました。
「世界一のママさん」と呼ばれたエピソード
八雲は、セツのことを「世界で一番のママさん」と評したと伝えられます。
子どもたちの世話だけでなく、八雲の仕事を支える家事全般を一手に引き受けたこと
異文化の夫が日本社会に適応できるよう、生活習慣やしきたりを丁寧に教え続けたこと
夫の短所や頑なな部分も、怒りすぎず、受け止めていく包容力
こうしたエピソードが積み重なり、「世界一のママさん」という言葉が象徴する、温かく頼もしい人物像が形作られています。
孫たちに囲まれた晩年の姿
晩年のセツは、孫たちに囲まれて暮らしていました。脳溢血の発作で寝たきりに近い状態になってからも、孫たちは枕元を訪れ、「おばあさん」を励ましたと伝わります。
死因そのものは重い病ですが、その最期は、家族から深く愛され、感謝されていた人生の集大成としても受け止めることができます。
よくある質問(FAQ)
Q1. 小泉セツの死因は?なぜその病気になった?
A. 記録によれば、死因は「脳溢血」です。背景には、60歳を過ぎてから悪化した「動脈硬化」があり、脳の血管がもろくなっていたと考えられます。当時は高血圧や動脈硬化に対する有効な治療法が限られていたため、高齢者の代表的な死因の一つでした。
Q2. 亡くなった場所・お墓はどこ?お参りはできる?
A. セツは、東京・新宿西大久保の自宅で脳溢血の発作により亡くなりました。遺骨は東京・雑司ヶ谷霊園に葬られ、夫・小泉八雲の墓と並んでいます。雑司ヶ谷霊園は一般に開かれている公営霊園であり、静かにマナーを守ればお参りすることができます。
Q3. ドラマの最期のシーンは史実とどれくらい違う?
A. ドラマ「ばけばけ」は、史実をベースにしながらも、物語としての感動を高めるために、発症のタイミングや会話の内容などに脚色が施されていると考えられます。史実としては「動脈硬化を背景とした脳溢血により自宅で亡くなった」「家族に見守られた」という大枠が確認されていますが、台詞や細部の感情描写はドラマ制作者の創作です。
Q4. 小泉セツ自身の著作や、もっと詳しく知るための本は?
A. セツ自身がまとめた回想として『思ひ出の記』(小泉節子著)があり、小泉家の子孫や研究者によって刊行・監修されています。また、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツ』などの伝記は、晩年の病状や最期の様子も含めて詳しく描いています。さらに、小泉八雲記念館の企画展図録なども、最新の研究成果を踏まえた良質な資料です。
まとめ|小泉セツの最期から見える生き方
死因・晩年の要点の振り返り
死因は「脳溢血」であり、その背景には長年の動脈硬化があった
1932年2月18日、東京・新宿西大久保の自宅で、64歳で亡くなった
夫・小泉八雲の死から約28年後、長男夫妻や孫たちに見守られた最期だった
小泉セツの生き方から現代の私たちが学べること
セツの最期を知ると、そこには「作家の妻」や「朝ドラのモデル」という肩書きを超えた、一人の人間としての生き方が浮かび上がります。
生活が苦しくとも、家族を守り抜いた強さ
異文化の夫を支え、自身も変化を受け入れ続けたしなやかさ
晩年になっても、家族や物語への愛情を失わなかった温かさ
こうした姿は、病気や老いがあってもなお、人は最後まで誰かを支え、誰かに支えられて生きることができる、というメッセージを私たちに伝えているように感じられます。
さらに深く知るための次の一歩
実際に雑司ヶ谷霊園や松江の記念館・旧居を訪れてみる
『思ひ出の記』『八雲の妻 小泉セツ』などの伝記・回想を読む
朝ドラ「ばけばけ」を、史実を踏まえた新たな視点で見返してみる
これらの一歩を通じて、小泉セツの人生と最期を、より立体的に感じ取っていただければ幸いです。