『秒速5センチメートル』は、新海誠監督による2007年公開のアニメーション映画です。
小学生から社会人に至るまでの主人公・遠野貴樹の年月と心の変化を、「桜花抄」「コスモナウト」「秒速5センチメートル」という三つの短編で描く連作形式の青春ドラマです。
美しい背景美術や音楽、「届かない恋」をテーマにした叙情的な物語から、公開当初から一部のファンには熱烈に支持されてきました。
一方で、レビューサイトやブログ、Q&Aサイト等には「主人公がいつまでも過去に執着していて気持ち悪い」「観て鬱になった」「見終わったあとしばらく立ち直れなかった」といった感想も数多く投稿されています。
本記事では、この「気持ち悪い」という評価を感情論で片付けるのではなく、
具体的にどの点が気持ち悪いと言われやすいのか
その背景にはどんな心理や恋愛観があるのか
それでもなお作品が評価され続ける理由は何か
を整理して解説いたします。物語の核心に触れる部分もあるため、未視聴の方はネタバレにご注意ください。
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秒速5センチメートルはなぜ「気持ち悪い」と言われるのか
ネット上の批評やレビューを俯瞰すると、「気持ち悪い」という言葉は、だいたい次のような文脈で用いられています。
主人公・遠野貴樹の「動かなさ」「決めなさ」に対する苛立ち
中学時代の淡い恋を、成人後も引きずり続ける姿への嫌悪感
花苗や理沙といった女性キャラクターへの不誠実さ・自己中心性
「報われない恋」「離れていく二人」を描き続けることによる鬱屈した空気感
つまり、「作品の雰囲気がなんとなく暗い」というレベルではなく、
貴樹という人物像そのものが生理的に受け入れがたい
という評価が少なからず存在している、ということです。
『気持ち悪い』と感じられる主な7つの理由
理由1:主人公・遠野貴樹の極端な受け身さと優柔不断さ
まず多く挙げられるのが、遠野貴樹の「極端な受け身さ」です。
自分からはなかなか行動に移さない
関係が壊れそうになっても、はっきり言葉にしない
誰かを傷つけている自覚があっても、決定的な一歩を踏み出さない
といった点に、視聴者は強いストレスを感じます。
レビューでも「ここまで何も決めない主人公は珍しい」「見ていてイライラする」という声が目立ちます。
物語としては「動けなさ」自体がテーマの一部ですが、視聴者の感情としては、
「そこまで悩むなら、せめて正直に話してほしい」
という思いが募り、「気持ち悪い」という評価につながりやすくなります。
理由2:過去の恋愛への病的なまでの執着
幼少期に出会った篠原明里への思いを、貴樹は大人になっても長く引きずり続けます。
過去の恋を美化し続ける姿は、一部からは「純愛」として受け取られる一方で、
「ここまで行くと、もはや未練をこじらせているだけでは?」
「動き出すどころか、現実から逃げ続けているように見える」
という批判も多く見られます。
学術的な論考では、このような状態を「過去の恋愛に囚われ続ける青年期の心理」として位置付け、「ストーカー的な執着」「煮え切らない態度への嫌悪感」という視聴者の反応が指摘されています。
「純愛」と「執着」の境界が曖昧な描き方だからこそ、受け手によっては強い不快感につながってしまうのです。
理由3:花苗や理沙など、周囲の女性への不誠実さ
貴樹の周りには、彼に好意を寄せる女性が複数登場します。代表的なのが、鹿児島での同級生・花苗と、社会人時代の恋人・水野理沙です。
どちらの女性に対しても、貴樹は「嫌いではない」「むしろ好きな部分もある」はずなのに、心のどこかで明里の影を引きずり続けています。その結果、
花苗の気持ちに気づきながら、明確な答えを出さない
理沙とは3年付き合いながらも心の距離は縮まらない
という、当人たちにとっては非常に残酷な関係が続きます。
視聴者、とりわけ女性視点から見ると、
「はっきり断るならまだいいが、期待だけ持たせて放置するのが一番きつい」
と感じられ、これも「気持ち悪い」「自分勝手」という評価に直結します。
理由4:救いの少ない鬱展開とカタルシスの欠如
物語は、典型的なラブストーリーのように「再会して結ばれる」方向には進みません。
途中で途切れる手紙
すれ違い続ける生活
ラストでの、あまりに淡く儚いすれ違い
といった展開は、「現実的」である一方で、感情の出口がほとんど用意されていません。
そのため、視聴後に
「どこに感情を持っていけばいいのかわからない」
「こんな終わり方を見せられて、ただ鬱になっただけだった」
という感想を抱き、「気持ち悪い」「後味が悪すぎる」と感じる視聴者が一定数いるのです。
理由5:男性目線に偏った恋愛観・女性観
いくつかの批評では、『秒速5センチメートル』を「童貞の妄想のような男性中心の恋愛観」と辛辣に評するものもあります。
女性キャラクターが、主人公の内面の成長や葛藤のための「装置」として描かれがち
女性側の心情の掘り下げが相対的に少なく、貴樹の視点に偏っている
といった構造から、現代的なジェンダー感覚で見ると「男性の都合のいい物語」に見えてしまうことがあります。
もちろん、監督の意図がそこにあったかどうかは別問題ですが、
2020年代の感覚で見ると違和感が強調されやすい
というのは、無視できないポイントです。
理由6:リアルすぎる心情描写ゆえの「生々しい不快感」
『秒速5センチメートル』の特徴として、「こういう人、現実にもいるよね」と感じさせるレベルのリアルさがあります。
口ではきれいなことを言いながら、実際には何も変えられない
誰かを傷つけている自覚がありつつ、向き合う覚悟が持てない
といった「人間の弱さ」が、脚色少なめに、淡々と描かれているのです。
このリアルさは、共感できる人にとっては刺さる一方で、
「自分や身近な人の嫌な部分を見せつけられているようで、直視したくない」
という拒否反応を生み、結果として「気持ち悪い」という言葉になって表出していると考えられます。
理由7:観るタイミングや年齢によって刺さり方が大きく違う
『秒速5センチメートル』は、視聴者の年齢や人生経験によって、評価が大きく変わる作品でもあります。
学生時代に観たときは「純粋で切ないラブストーリー」
社会人になってから観ると「いつまでも過去に囚われた大人の痛々しい姿」
と映ることも多く、同じ人でも年月とともに印象が変わります。
その意味で、「気持ち悪い」と感じたこと自体は、
今の自分の価値観や人生経験を映す鏡でもある
ととらえることができます。
心理学・恋愛観から見る『気持ち悪さ』の正体
思春期・青年期の心理としての「動けない主人公」
心理学的な観点からは、思春期から青年期にかけて、
恋愛や進路に関して「決められない・動けない」状態が長く続く
過去の出来事を理想化し、それを基準に現在を評価してしまう
といった心の動きは、珍しいものではありません。
先述の論文でも、貴樹のように「過去の恋愛に囚われ続ける姿」は青年期の心理の一形態として示され、「気持ち悪い」という評価は、その極端さへの反応であると分析されています。
したがって、貴樹は「現実離れした異常者」というより、
多くの人が持ちうる弱さを極端な形で体現したキャラクター
と捉えることも可能です。
「男は名前をつけて保存、女は上書き保存」という比喩との関係
よく言われる比喩として、
男は恋愛を「名前をつけて保存」
女は恋愛を「上書き保存」
というものがあります。
『秒速5センチメートル』は、まさにこの比喩通りに「名前をつけて保存」してしまった男性の物語として語られることが多く、そこに共感する男性視聴者も少なくありません。
一方で、上書き保存型の感覚からすると、
「いつまでも過去に囚われ続けるのは理解できない」
「目の前の相手を大事にしないのは不誠実」
と感じられ、強い嫌悪感の対象になります。
つまり、『秒速5センチメートル』を「気持ち悪い」と感じるかどうかには、
自分自身の恋愛観(保存型か、上書き型か)
も深く関わっていると考えられます。
女性視点から見た貴樹像と、強い嫌悪感の背景
女性視点からの批評では、
花苗や理沙に対する貴樹の態度が「無自覚な加害」に見える
「自分が一番傷ついている」とどこかで思っているような被害者意識が鼻につく
といった指摘がなされています。
これは、現代のジェンダー感覚から見れば非常に自然な反応です。
作品が制作された当時よりも、2020年代の方が、この違和感はより強調されて受け止められていると考えられます。
それでも『秒速5センチメートル』が評価される理由
映像・音楽・構成としての完成度の高さ
多くのレビューで共通して評価されているのが、映像と音楽のクオリティです。
雪や桜、電車、都市の風景などの背景美術
山崎まさよし「One more time, One more chance」とのシンクロ
3本の短編を通じて一つのテーマを浮かび上がらせる構成
といった要素は、「主人公は嫌いだが映像は素晴らしい」「気持ち悪いけれど、忘れられない」といった複雑な評価を生み出しています。
「気持ち悪さ」自体がテーマの一部になっている可能性
もう一つの見方として、
あえてカタルシスを与えず、弱くて不器用な人間の姿を見せること自体がテーマである
という解釈があります。
もしそうだとすれば、「気持ち悪い」という感情は、監督が意図した効果の一部とも言えます。
観客に「自分ならどうするか」「自分も似たようなことをしていないか」と考えさせるための、あえて心地よくない物語構造だと捉えることもできます。
新海誠作品の変遷の中での位置づけ(『君の名は。』以降との比較)
『君の名は。』以降の新海作品は、よりエンタメ性・カタルシスを重視しつつも、やはりどこかに「届かなさ」や「未練」といった要素を残しています。
その流れの中で、『秒速5センチメートル』は
最も救いが少なく
最も観客を突き放す
最も「気持ち悪さ」がむき出しになっている
初期の極端な一作として位置づけられます。
この極端さこそが、一部のファンにとっては「新海誠の真骨頂」として高く評価される理由でもあります。
実写版公開と2020年代以降の受け止められ方の変化
実写版・再視聴によって浮き彫りになった新たな論点
2020年代に入り、サブスク配信の普及や実写映画化のニュースにより、『秒速5センチメートル』を“今の価値観”で見直す動きが強まりました。実写版の感想とあわせて、アニメ版の「気持ち悪さ」について語る記事も増えています。
これにより、
当時はそこまで問題視されていなかった男女観の偏り
「精神的なDV」とも取れるような関係性
心の病理としての貴樹の姿
などが、より明確な批判対象として浮かび上がってきています。
現代の価値観で見直したときの問題点と意義
現代の視点であれば、『秒速5センチメートル』の描写には明らかに問題と感じられる部分もあります。それを「名作だから」と免罪する必要はありません。
一方で、だからこそ
当時の価値観と今の価値観の差
自分自身の「許せないライン」
を考える素材として、依然として意味のある作品であるとも言えます。
「気持ち悪い」と感じた時点で、すでにあなたは作品と対話を始めているとも言えるのです。
『気持ち悪い』と感じたあなたへのガイドライン
無理に「名作」と思い直す必要はないという前提
まずお伝えしたいのは、
「気持ち悪い」と感じたあなたの感覚は、決して間違いではない
ということです。
作品をどう受け止めるかは自由であり、「名作と呼ばれているから好きにならなければならない」ということは一切ありません。
モヤモヤを自分の言葉にしてみるヒント
もし余裕があれば、次のような問いを自分に投げかけてみてください。
自分は、どの場面で一番強く「気持ち悪い」と感じたか
それは、誰に対しての感情だったのか(貴樹/明里/花苗/理沙/大人たち)
その感情は、自分のどんな価値観・経験とつながっていそうか
こうして言葉にしてみることで、「漠然とした不快感」が「自分の価値観」へと変わっていきます。それ自体が、作品から得られる一つの学びと言えるでしょう。
それでももう一度観るなら、どこに注目するといいか
「気持ち悪い」と感じつつも、もう一度向き合ってみたいと思われた場合は、次の視点で再視聴してみるのも一案です。
貴樹ではなく、花苗や理沙の視点に立って物語を追ってみる
自分が同じ立場だったら、どこでどんな選択をしたかを考えながら観る
映像・音楽・編集など、物語以外の技術的な部分に注目してみる
それでもやはり受け入れがたいと感じるなら、それはそれで自然な反応です。
大切なのは、「気持ち悪かった」という感想を無理に矯正することではなく、
なぜそう感じたのかを一度立ち止まって考えてみること
だと考えます。